【重要】teacup. byGMOのサービス終了について
 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL

スレッド一覧

  1. 足あと帳(1)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月27日(日)08時12分49秒
返信・引用
  > 出雲神話の「国引き神話」は伽耶と列島の西日本北部とがひと繋がりになっていたことを暗示している、とは想います。『古事記』にあって『日本書紀』では出雲固有の神話は抹消されています。

私は出雲の王権は、伽耶ではなく新羅系の渡来人達が打ち立てたものだと考えています。
古代朝鮮半島との日本列島との交通は、朝鮮南岸(釜山・巨済島)あたりから沖合に見える対馬に渡り、対馬から見える壱岐に渡り、壱岐から見える九州北部に渡る、というのが主ルートですが、この釜山・巨済島は伽耶(金官伽耶)の支配地であり、新羅系の勢力は利用できなかったはず。

一方で、新羅系勢力の中心である慶州に近い東岸浦項あたり船出して、竹島→隠岐→山陰と渡る副ルートがあり、このルートを伝って出雲を制した新羅勢力が、邪馬台国の頃には畿内をも制していたのだと考えています。
その証拠に、隠岐には「隠岐馬」という固有の小型馬(ポニー)がおり、それは李氏朝鮮でも乗用にされていた小型馬と類似していますが、隠岐馬は「軍事用にならない」という理由で、明治時代に人工的に戦前にさせられてしまいました。

ただ、この仮説の難点は、朝鮮東岸から竹島は見えず、竹島からも隠岐は見えないということ。竹島は鬱陵島からは見えますが、浦項→鬱陵島→竹島→隠岐となると、一旦かなり日本海を北上して大回りすることになります。
ただ、浦項から船出して東朝鮮海流を乗り切り、上手く対馬海流に乗れば、無寄港でも隠岐までは行け、そこから出雲は見えるのでこの航路は可能。

但し、新羅→出雲は海流に乗っていくので可能でも、出雲→新羅は対馬海流に逆らって進むことになり、古代の造船・航海技術でそんなことが可能であったか疑問です。

ただ、この新羅を伽耶に置き換えても同じことであり、出雲勢力が九州を経由せずに伽耶と直接往来ができたかどうかは疑問。

いずれにせよ、出雲王朝や畿内にあった王朝(「王朝」と言っても「豪族」「大名」程度のもの)は、九州から北上して畿内を制した伽耶系の「倭王朝」とは別系統であり、九州から畿内、或いは関東までを制した倭王朝の武威を怖れ、「国譲り」即ち平和裏に服属したということでしょう。

>  『日本書紀』を読んでいると、夜郎自大とも想える記事が多いと感じます。そのために史実がよくわからない謎だらけの奇書のようなものになっていて、体裁はともかく、まともな史書とはとても想えません。なぜ、日本の古代正史が『古事記』『日本書紀』に集約されてしまったのか。それぞれの成立当時でも書き文字として記録されていた史料があまりなかったのでしょう。中国の史書の場合は、漢字発祥の文化圏なので、膨大な書き文字史料があったから、それだけ史実の跡をたどれる条件がありましたが、列島にはそれが少なく、「井の中の蛙」のような夜郎自大なものになってしまった。
>
>  拙論では5世紀後半に百済王族を天津神として成立した曲りなりの統一国家(曲りなりというのは列島全体に支配が及ばなかった、という意味)が成立し、そこから約300年ぐらい、途中の飛鳥王朝は例外として、百済王族の王朝が連続していましたが、新羅が朝鮮半島南部を統一した後、しばらくして新羅王族が倭王位を「禅譲」させ(『日本書紀』末行。文武の系譜は信用できない)、新羅王族倭王時代に『古事記』『日本書紀』が成立したために、5世紀後半からの統一事業はかき消され、それ以前の出雲連合の史実もかき消されたものと想います。しかし、百済王族の代々の末裔たちは畿内ほか各地に累積していたので、史書の表向きは百済王族の事跡を隠しながら、様々な方法で痕跡を残さざるを得なかった、大枠はそういうことだと想います。ある土地に長く暮らしていた人たちの中からその土地の王が生まれることもありますが、外来勢力が侵入支配して王を立てることが多いのは、世界史の様々な地域でも起きていたことですね。王族が外から来たばかりの場合が多い。中国でも朝鮮でも歴代王朝の王族が外来である場合が多い。中国や朝鮮の史書ではそのことを隠していませんが、『古事記』『日本書紀』では隠しながら痕跡を残すという、謎の多い、手の込んだ書き方になってしまった。このような奇書を正史とする国はあまり類例がなさそうです。
>
>  伽耶諸国と倭(出雲連合やそれ以降)が政治的にも文化的にも一つに連続していなかった、といえる一つの根拠は、伽耶諸国では「殉葬」が長く続いたことです。
>
>  光仁天皇の父系が百済王族の末裔、次の桓武は父母とも百済王族の末裔。桓武の母は百済王族の斯麻の末裔である。昆支の末裔は飛鳥戸氏。

だから、私は記紀は、663年の白村江敗戦・672年の壬申の乱を経て権力を掴んだ天武天皇が、663年の百済・668年の高句麗の滅亡によって、倭王朝本貫の地である伽耶(任那)回復が絶望となった現実を直視し、王朝のルーツである朝鮮半島との訣別を決意。

故に、国号を「日本」と改めることで伽耶渡来の「倭」との連続性を経ち、記紀の神話を書かせて「我が日本王朝の祖は日本列島を作ったイザナギ・イザナミの神であり、日本王朝は天地開闢以来日本列島固有の王朝、海外に攻め込むことはあっても海外から攻め込まれたことはない国」というフィクションを内外・後代に対して宣布する「陰謀の書」だと言っています。
日本書紀が夜郎自大なのはそのため。

『日本書紀』に於いて、奈良時代律令制国家成立前史の三大事件、645年の乙巳の変(大化の改新)、663年の白村江の戦い、672年の壬申の乱のうち、乙巳の変と壬申の乱の記述非常に詳細であるのに対し、白村江の戦いはほんの軽くしか触れておらず、故に後代の人々は「白村江の戦いなんて大した出来事ではない」と思っているのですが、後代の人にそう思わせることこそが天武天皇の陰謀。

天武天皇は、白村江敗戦は、伽耶渡来以来朝鮮半島と日本列島に跨る倭国300年の歴史に終止符を打たせる重大事件であることが解っていたからこそ、わざと小さい扱いにさせ、イザナギ・イザナミ以来何千年の歴史を持つ「日本」に於いては白村江敗戦など小さな出来事にすぎない、と後代の人に思わせようとしたのです。

しかし、平安時代以降明治維新に至るまでの、後の日本の歴史が記紀の描いたフィクションに一致してしまったため、後代の人は天武天皇の陰謀にまんまとはまり、また朝鮮や中国でも王朝が目まぐるしく交代したため、「日本王朝の前身は伽耶からの渡来王朝」という事実は内外でわすれさられてしまった、ということです。

ただ、天武天皇が記紀に倭王朝が朝鮮から渡来してきたことを示唆する神話を残しておいたのは、7世紀後半の時点では本貫の地伽耶回復は無理でも、遠い将来にそれが可能になる日が来るかもしれず、ソウナッタ場合に半島に対する主権を正当化する根拠を残しておいた、ということです。

そして、天武朝から1200年以上たった明治維新後に実際に朝鮮併合は起り、その際にはやはり、記紀の神話に基づく「日鮮同祖論」が唱えられました。
天武天皇はそこまで見通していたのであり、日本の歴史上国家千年の大計を持った最高の君主だったと言えます。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月26日(土)08時57分33秒
返信・引用 編集済
  出雲神話の「国引き神話」は伽耶と列島の西日本北部とがひと繋がりになっていたことを暗示している、とは想います。『古事記』にあって『日本書紀』では出雲固有の神話は抹消されています。

 『日本書紀』を読んでいると、夜郎自大とも想える記事が多いと感じます。そのために史実がよくわからない謎だらけの奇書のようなものになっていて、体裁はともかく、まともな史書とはとても想えません。なぜ、日本の古代正史が『古事記』『日本書紀』に集約されてしまったのか。それぞれの成立当時でも書き文字として記録されていた史料があまりなかったのでしょう。中国の史書の場合は、漢字発祥の文化圏なので、膨大な書き文字史料があったから、それだけ史実の跡をたどれる条件がありましたが、列島にはそれが少なく、「井の中の蛙」のような夜郎自大なものになってしまった。

 拙論では5世紀後半に百済王族を天津神として成立した曲りなりの統一国家(曲りなりというのは列島全体に支配が及ばなかった、という意味)が成立し、そこから約300年ぐらい、途中の飛鳥王朝は例外として、百済王族の王朝が連続していましたが、新羅が朝鮮半島南部を統一した後、しばらくして新羅王族が倭王位を「禅譲」させ(『日本書紀』末行。文武の系譜は信用できない)、新羅王族倭王時代に『古事記』『日本書紀』が成立したために、5世紀後半からの統一事業はかき消され、それ以前の出雲連合の史実もかき消されたものと想います。しかし、百済王族の代々の末裔たちは畿内ほか各地に累積していたので、史書の表向きは百済王族の事跡を隠しながら、様々な方法で痕跡を残さざるを得なかった、大枠はそういうことだと想います。ある土地に長く暮らしていた人たちの中からその土地の王が生まれることもありますが、外来勢力が侵入支配して王を立てることが多いのは、世界史の様々な地域でも起きていたことですね。王族が外から来たばかりの場合が多い。中国でも朝鮮でも歴代王朝の王族が外来である場合が多い。中国や朝鮮の史書ではそのことを隠していませんが、『古事記』『日本書紀』では隠しながら痕跡を残すという、謎の多い、手の込んだ書き方になってしまった。このような奇書を正史とする国はあまり類例がなさそうです。

 伽耶諸国と倭(出雲連合やそれ以降)が政治的にも文化的にも一つに連続していなかった、といえる一つの根拠は、伽耶諸国では「殉葬」が長く続いたことです。

 光仁天皇の父系が百済王族の末裔、次の桓武は父母とも百済王族の末裔。桓武の母は百済王族の斯麻の末裔である。昆支の末裔は飛鳥戸氏。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月26日(土)07時27分15秒
返信・引用 編集済
  > No.115[元記事へ]

> 4世紀から5世紀の伽耶諸国は、もっと古い時代の狗邪韓国と同じではないでしょう。出雲(諸国)連合と伽耶諸国連合とはよく似た政治形態だったと想います。伽耶諸国連合の盟主は最初は製鉄により栄えた金官伽耶だけど、伽耶諸国連合の中では比較的に領土の広い安羅国や大伽羅国へ盟主が交替したのではないのかな。

朝鮮半島では313年に、後の朝鮮・満州・倭の運命を大きく変える出来事が起こっています。
それは、高句麗によって楽浪郡が消滅したことです。

それまで、半島南部の三韓は楽浪郡の直轄ではなく、地域ごとに中小の豪族たちが割拠する状態で、豪族同士の紛争も頻繁に起こっていたでしょうが、紛争が起こると楽浪郡が調停にはいり、大規模な軍事衝突を防いでいたでしょう。

日本の室町幕府は弱体政権でしたが、応仁の乱以前は、大名同士の紛争を調停するぐらいの力はあり、大規模な軍事衝突を防いでいたのと同じです。
ところが応仁の乱によって室町幕府の権威は失墜、紛争調停能力を失い、出自や法的正当性などに関係なく、在地で最も実力のある大名や弱小大名を滅ぼしたり傘下に置いたりして勢力を拡大してゆく戦国時代となり、やがて関東の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河の今川、中国の毛利、等々の大大名があらわれ、地方政権としてまとまって行くようになる。

それと同じで、楽浪郡が滅亡した三韓地域は戦国時代の様相を呈し、やがて馬韓では百済、辰韓(慶尚道)東部では新羅、辰韓西部と弁韓(全羅道)では金官伽耶が他の豪族を支配下に置く統一政権が生まれる。
そして、統一間もない伽耶が330~350年頃、伽耶の勢力が北九州豪族連合体(邪馬台国)の内紛に介入し、その盟主の座を乗っ取って九州に本拠を移し(天孫降臨神話)、350~370年頃に畿内に東遷(神武神話)、少なくとも九州から畿内まで(もしかすると関東まで)を支配する「倭王」となる。

3世紀半ばの魏志時代にはなかった百済や新羅の名が414年建立の高句麗好太王碑文に出てくるのに、伽耶の名はなく代わりに倭が出てくるのはそのため。

また、楽浪郡(平安道)には紀元前12世紀から中国人の植民国家「箕氏朝鮮」があり、それが紀元前195年に燕から亡命してきた衛満に乗っ取られて「衛氏朝鮮」に代わり、さらに紀元前109年に漢の武帝がそれを滅ぼして直轄領の楽浪郡を設置以後、前漢、後漢、公孫氏、曹魏、東晋と持ち主は変わっても313年に高句麗に滅ぼされるまで約400年間、中国人に支配され続けたため、代々楽浪郡生まれの楽浪郡育ちという中国人が何万人かいたはずです。

ただし、植民地ですから、宗主国人たる中国人は城塞の中に住み、住民たる朝鮮人は特別な許可をもらった者しか中国人居住区には入ることができず、楽浪郡生まれの楽浪郡育ちという中国人も何世代経っても中国語能力を保持し、読み書きその他の高度な技芸を保持していたはずです。

313年に高句麗によって楽浪郡が滅ぼされたとき、楽浪郡生まれの楽浪郡育ちで高度な技芸を持っていた中国人達はどうしたか?
抵抗して高句麗軍に殺された者もいたでしょうが、逃げ遅れて高句麗につかまり、技芸を買われてそのまま雇われたり、南の三韓、特に馬韓(百済)多く逃げてそこの豪族たちの食客になったりしたでしょう。

この楽浪郡人材を受け入れたことで、高句麗や百済の文明水準は一気に上がり、伽耶や新羅にもその一部が流れて、成立したばかりの伽耶・新羅王朝の文明化にも寄与したはずです。

ただし、この中国人達はもはや宗主国人ではなく、2~3世代で朝鮮人と同化してしまい、特別な訓練を受けた者以外は中国語能力を失ってしまったはず。

中央から派遣されてくる太守(総督)など幹部を除き、楽浪郡中国人の大半は山東→(遼東)→楽浪郡と移住してきたため、楽浪郡生まれの楽浪郡育ち中国人がはなす中国語は山東方言に近かったはず。
故に朝鮮の漢字音は山東(遼東)方言の漢字音によく似ているのであり、これは私が実験によって確かめています)私の仮説の正しさを証明しています。
いまこの説をより強固にして公式に発表するため(既に日本中国語学会で口頭発表はしていますが)準備しているところです。

>  4世紀~5世紀頃の伽耶諸国は倭国(伽耶)の領土と言えるほど単一ではないでしょう。
>  私がここに投稿する前に、他の投稿者が貴方の伽耶一辺倒の投稿に疑念を出しています。私だけではなくてね。いわゆる「任那問題」とは何か、ということでもある、ということでしょうね。

あなた方は私の本を読んでないんでしょう。

楽浪郡の滅亡により出現した、百済・新羅は最初は大豪族が中小豪族を支配下に置く諸豪族連合体(戦国大名のようなもの)でしたが、それから200年経つうちに中国の管制を取り入れて中央集権化が進み、地方豪族の自治権・自律性を奪って中央から派遣された地方官が地方の政治をつかさどるようになる。
もちろん地方豪族はそれに抵抗し、反乱も起こったでしょうが、百済や新羅の面積から考えれば、反乱を起こしても2~3日で中央からの討伐軍が到着し、すぐ鎮圧されたはず。

ところが、伽耶は統一直後、その統合の盟主たる金官伽耶の王が倭に移ってしまったため、中央集権化が進まず、故に新羅や百済は諸豪族を各個に調略してゆき562年には残った療育も新羅に併合されてしまうことになる。

このことはちゃんと私の本に書いてあります。

>  日本の学者と韓国の学者で衝突ばかりしているのが現状ですね。「前方後円墳」を意図的に隠そうとする韓国の学者の話は私も知っています。日韓双方の学者の言い分、どちらも違うと私は考えています。それをこれまで書いてきたつもりなんですがね。貴方は伽耶一辺倒の主張ですから、それも違うと想います。

>  「任那問題」あるいは「任那日本府問題」で喧々諤々やっているようですが、私は既に書いたように、一時期、百済王族で倭王族でもあった末多が金官伽耶国の王位を簒奪し、502年に末多の暴政に怒った民衆が末多を殺した、というのは史実だと想っています。斯麻は末多と同じ愚を犯さず、最終、正規の百済王となった、ということです。

倭に人質として居た末多や斯麻が百済に戻って王になったということは否定しませんが、倭が常に百済から人質を取っていたのは、391年の半島大攻勢の際に百済は倭を裏切ったという前科があるためであり、斯麻=武寧王=倭王武で百済と倭の両方を支配していたということにはなりません。倭王武は一世代上の人間です。

>末多の子が金官伽耶国の王位を継いで、『日本書紀』では己能末多干岐、金仇衡が532年に新羅に滅ぼされて倭へ逃れ、斯麻、継体とは血縁関係のある人物として、倭王位を継いだ。これが欽明だと想います。私のオリジナルではなく、鈴木武樹説ですね。私はこの説に同意しています。古代史研究にナショナリズムは不要ですね。

632年に倭王の出自である金官伽耶すらが新羅に調略されて寝返ってしまったため、焦った欽明朝639671)は任那(伽耶)駐在の軍勢を増やして支配の引き締めを図っていますが、伽耶諸豪族の離反は止まらず、562年には残った部分も新羅によって完全に消滅してしまいます。


>  貴方は百済と新羅の間の伽耶が緩衝地帯となって百済と新羅の衝突を防止していた、という旨書いておりましたが、これに私も同意します。ところが、金官伽耶国に末多が手を出したことによって、関係が悪化し、斯麻崩後、525年に新羅法興王が動いています。

私は「百済と新羅の間の伽耶が緩衝地帯となって百済と新羅の衝突を防止していた」などと言ってません。
伽耶の主敵は新羅、百済の主敵は高句麗であり、伽耶が新羅と戦っている際に高句麗から腹背を衝かれるのを防いでくれるのが百済、百済が高句麗と戦っている際に新羅から腹背を衝かれるのを防ぐのが伽耶で、背中合わせでそれぞれの主敵と立ち向かう地政学的な同盟関係にあった、と言っているのです。

但し、それは伽耶が慶尚道西部と全羅道だけを支配していた時代の話で、伽耶王が倭に移って大人口(大兵力)を持つ倭を支配するようになると話は別。
百済としては伽耶が新羅に滅ぼされてしまうと高句麗と新羅に挟撃されるので困るが、逆に倭が伽耶保全だけでなく半島での勢力拡大を図り、倭の大兵力を以て新羅を滅ぼしてしまう方がより困る。
実際、391年から倭はそれを本気でやったのであり、故に百済は長年の伽耶との友誼を捨てて高句麗に寝返らざるを得なくなった。

恐らく、391年からの大攻勢を主導した倭王は伽耶生まれで、自己規定としては「伽耶人」「伽耶王」であり、日本列島の統一は半島統一の手段としか考えていなかったのでしょうが、その後を襲った応神天皇は生まれは伽耶でも育ったのは日本、以後の天皇は日本生まれの日本育ちで自己規定としても「倭人」「倭王」であり、半島で勢力を拡大しようという野心は持たず、とりあえず「任那(伽耶)」の現状維持だけが唯一の半島政策。
半島での勢力拡大を考えた最後の大王が雄略天皇ですが、それを果たすことなく死去。

その後の大王は倭国内での政争に明け暮れ、だれも半島での勢力拡大など考えなくなり、512年には持て余していた全羅道側の四県を百済に割譲さえしてしまう。
(小白山脈の向こうの全羅道側(馬韓・辰韓とは言語法俗を異にする本来の弁韓)の住民は必ずしも慶尚道に本拠を置く伽耶に従順ではなく、伽耶に本拠があった時代からその支配には手を焼いていたのでしょう)

また百済としても、倭が伽耶の「現状維持」に徹してくれることが安全保障上一番都合よく、人質や倭の欲しがる人材や貢物を差し出して倭の歓心を買い、間違っても倭が伽耶から撤収したり、新羅側に寝返ったりしていた、ということです。

但し、拙著は歴史学的な第一章と、言語学的な第二章~第八章に分かれており、重要なのは言語学的考察であって、第一章はオマケ程度のもの。

何故、倭が滅んでしまった百済を再興するために白村江の大軍事援助をしたかはこのあたりから説き起こしていかないと解らないので書いただけ、なければないで済む章なのです。
故に、この章は第一章にするか、最後の第八章にするかで迷いましたが、古代史ファンの方が言語学に興味を持つ人間よりはるかに多いため、第一章に置いた方が売れ行きが良いだろうと思っただけ。

奈良時代以往の古代史など史料が少なすぎて、稲荷山古墳鉄剣級の大発見が続出しない限り(天皇陵の発掘でも許可されれば様々な新史料が出てくるはず)、現状の史料だけでは絶対確実な説は出せないのであり、故にアマチュアのディレッタントが「邪馬台国は阿波にあった」だの「古代には九州の倭王朝と畿内の日本王朝が併存していた」だの「倭王武=武寧王」だの「聖徳太子はミトラ教徒だった」だの、常識で考えれば「トンデモ」としか考えられない説であっても史料を以てその息の音を止めることはできない。

故に、私の説も数ある古代史説の一つとして扱われるに過ぎず、寺下さんのように自説を振り回して反論してくる人間がいることは最初から分かっています。

だから、「はじめに」で私の説の中核を為すのは「音声学説」だと述べており、「おわりに」で第一章は、私の社会学的推測を述べただけであり、新たな史料が出てこない限り具体的なことは確かめようもなく、(私の説以上に説得力のある説が出てくるなら)この説に拘泥するつもりまはない、とちゃんと述べています。

現在ある史料だけで口角泡を飛ばす議論をするだけ時間の無駄。
今は、仕事中の事故の怪我で自宅療養中のため、いくらでもお相手してあげますが、私が寺下説になびくことなどあり得ない、ということだけは念頭に置いてください。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月25日(金)09時06分37秒
返信・引用 編集済
  4世紀から5世紀の伽耶諸国は、もっと古い時代の狗邪韓国と同じではないでしょう。出雲(諸国)連合と伽耶諸国連合とはよく似た政治形態だったと想います。伽耶諸国連合の盟主は最初は製鉄により栄えた金官伽耶だけど、伽耶諸国連合の中では比較的に領土の広い安羅国や大伽羅国へ盟主が交替したのではないのかな。
 4世紀~5世紀頃の伽耶諸国は倭国(伽耶)の領土と言えるほど単一ではないでしょう。
 私がここに投稿する前に、他の投稿者が貴方の伽耶一辺倒の投稿に疑念を出しています。私だけではなくてね。いわゆる「任那問題」とは何か、ということでもある、ということでしょうね。
 日本の学者と韓国の学者で衝突ばかりしているのが現状ですね。「前方後円墳」を意図的に隠そうとする韓国の学者の話は私も知っています。日韓双方の学者の言い分、どちらも違うと私は考えています。それをこれまで書いてきたつもりなんですがね。貴方は伽耶一辺倒の主張ですから、それも違うと想います。

 「任那問題」あるいは「任那日本府問題」で喧々諤々やっているようですが、私は既に書いたように、一時期、百済王族で倭王族でもあった末多が金官伽耶国の王位を簒奪し、502年に末多の暴政に怒った民衆が末多を殺した、というのは史実だと想っています。斯麻は末多と同じ愚を犯さず、最終、正規の百済王となった、ということです。末多の子が金官伽耶国の王位を継いで、『日本書紀』では己能末多干岐、金仇衡が532年に新羅に滅ぼされて倭へ逃れ、斯麻、継体とは血縁関係のある人物として、倭王位を継いだ。これが欽明だと想います。私のオリジナルではなく、鈴木武樹説ですね。私はこの説に同意しています。古代史研究にナショナリズムは不要ですね。

 貴方は百済と新羅の間の伽耶が緩衝地帯となって百済と新羅の衝突を防止していた、という旨書いておりましたが、これに私も同意します。ところが、金官伽耶国に末多が手を出したことによって、関係が悪化し、斯麻崩後、525年に新羅法興王が動いています。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)08時00分38秒
返信・引用
  > No.105[元記事へ]

> 『日本書紀』の「任那四県割譲」の四県は『三国史記』地理志によれば現在の全羅北道にあり、ここで集中的に「前方後円墳」が発見されています。この頃、拙論では百済王は熊津に牟氏族の王がいて、餘氏族の百済斯麻王(餘隆)とは二王並立していたものと想います。百済熊津の牟氏百済から離反した全羅道の干岐たちが餘氏族の百済王を自称した斯麻王の臣下を宣言したものと想います。前方後円墳が任那四県の全羅北道に集中しているのは、この地域の首長たちが斯麻王に恭順したことの証左であるのでしょう。

全羅道は512年に百済に割譲されるまで倭(伽耶)の領土だったのであり、そこに前方後円墳があっても不思議でもなんでもありません。

最近(一年以内ぐらい?)、韓国南部のどこかで前方後円墳が発見されたが、韓国の歴史学者や考古学者はその地域が倭の支配下であったことの証明になってしまうので、日本の前方後円墳と関連付けることを拒否している、という話を聞きました。(うろ覚えですので間違ってたらごめんなさい)

しかし、韓国の学者達は何で逆の発想ができないのでしょうか?
韓国南部に前方後円墳を作った勢力が日本列島を支配下に置いたのだ、と考えればいいだけ。
現に、私は最初から倭王朝は伽耶からの渡来王朝だと言っています。

但し、渡来王朝と植民地とは違います。

伽耶に本拠地があり、そこから派遣された者が日本列島を支配していたなら、日本列島は伽耶の植民地。

しかし、日本列島に本拠を移して二、三世代たち、渡来してきた王族・貴族たちも列島内の豪族との政略結婚で倭人と同化し、話す言葉も日本語になってしまえば、もはやそれは倭王朝であり、倭から派遣された者が任那・伽耶を支配するようになれば、任那・伽耶の方が倭の植民地なのです。

そこのところを勘違いしてはいけません。

 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)07時46分20秒
返信・引用
  > No.107[元記事へ]

> 倭王武の上表文の「自昔祖禰」は祖父の珍ということではないか。ただし、讚と珍は兄弟であるが、珍と済との血縁関係はわからない。拙論では讚と珍は出雲連合の盟主(伝承の国津神、大国主大神)で、済は出雲連合に加盟していた九州倭国王であったと想います。
>  南朝宋では、遣使から情報を得ることしかできない(金官伽耶についても同様)。
>  拙論では倭王済が餘慶で、『日本書紀』雄略紀2年条の記事にあるとおり、己巳年(429年)に渡航して、九州倭国王に天津神として就いた。この時、珍は存命であり、438年に遣宋使を出している。珍の没年はわからないが、443年に済が遣宋使を出し、血脈のない珍の後継として宋から承認された。宋王は列島内のことを遣使によってしか得られない。
>
>  倭王済は455年に前王を継いで百済王となった。この時、済は九州倭国王位を譲位した。『宋書』460年の倭王からの遣使では倭王の名は記されず将軍号も求めていない。462年の遣使は世子興によるものでこの遣使によって世子興は倭王として宋から承認され安東将軍号を受けている。455~462年まで在位していた九州倭国王は誰なのか、ということになります。458年に百済王餘慶が遣宋使を出して上表して臣下の将軍号を求めている。その臣下の筆頭には(百済王継承順位第二位の)右賢王餘紀、次に(百済王継承順位第一位の)餘昆が書かれている。このことから、九州倭国王として455~462年に在位していたのは餘紀であると。しかし将軍号の序列は征虜将軍の餘昆、冠軍将軍の餘紀、そして輔国将軍の餘都(外戚の牟都)の順。
>  462年に倭王位に就いた興は餘昆。477年の倭王武は餘隆となる。
>  拙論では「倭の五王」ではなく「倭の六王」。

倭王武上表文は筆者のオリジナルではなく「自昔祖禰,躬擐甲胄,跋?山川,不遑寧處」の部分は『春秋左氏伝』からの借用であり、他の部分も『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』などからの借用がみられ、要はその時点での中国古典からの借用のパッチワークで作られ文章であり、『祖禰』が誰であったかなど論じても意味ありません。

ただ、上表文の筆者はこれらの中国古典に通じていた教養人であり、やはり北燕からやって来た一世帰化人だと思われます。

さらに私は九州王朝説など「トンデモ」としか思っていませんので、そんなこと私に対していくら論じても無駄です。

 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)07時09分28秒
返信・引用
  > No.106[元記事へ]

> 拙論では、男弟王は斯麻の子で、倭王在位年は503~523年。503年即位からちょうど20年後に百済熊津に入京し、斯麻崩後、百済王を継いだ。男弟王は百済聖王と同一人物。倭王であった斯麻が宋朝から賜った漢風諡号の「武」と、百済王として521年に梁朝から賜った将軍号の「寧東大将軍」から百済聖王が斯麻崩後に「武寧王」と諡したものと想われる。

勝手にそう想っていてください。
誰も認めませんから。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)07時05分33秒
返信・引用 編集済
  > No.105[元記事へ]

> 『日本書紀』の「任那四県割譲」の四県は『三国史記』地理志によれば現在の全羅北道にあり、ここで集中的に「前方後円墳」が発見されています。この頃、拙論では百済王は熊津に牟氏族の王がいて、餘氏族の百済斯麻王(餘隆)とは二王並立していたものと想います。百済熊津の牟氏百済から離反した全羅道の干岐たちが餘氏族の百済王を自称した斯麻王の臣下を宣言したものと想います。前方後円墳が任那四県の全羅北道に集中しているのは、この地域の首長たちが斯麻王に恭順したことの証左であるのでしょう。
>
> 『日本書紀』末多が餘昆の子(第二子)であるなら、末多の姓は餘であり、牟にはなりえない(牟氏の外戚でもない)。何故かこの時期に突如、金官伽耶の荷知王が遣宋使を出し輔国将軍号を受けている(479年で宋朝滅亡直前)。金官伽耶から南朝への遣使貢献はこの一回限り。金官伽耶の初代王は伝承的人物の金首露王ですが、その王権を荷知が簒奪したのではないか。『三国史記』によれば、荷知が金官伽耶王に即位したのは491年。この荷知が末多ではないか。『日本書紀』も『三国史記』も牟大と末多を同一人物としているが、それならば牟都と同じ姓であるのは奇妙。
>
> 『日本書紀』継体紀の久羅麻致支弥(クラマチキミ)の記事で、戦乱で広域伽羅へ流浪した「難民」に百済籍を登録させたことが書かれています。木満致と同一人物と想われる久羅麻致支弥が503年に百済王を自称した斯麻王の臣民として戸籍作成したのであれば、これは斯麻王をないがしろにした行為とはならず、斯麻王の臣下として大きな功績となったはず。当然ながら、この時の木満致は斯麻王の功臣であって、男弟王の臣下ではない。ところが、あたかも男弟王の臣下でありながら臣下としてあるまじき事績として『日本書紀』編者が批難して、しかもわざわざ「キミ」という王を意味する言葉をくっつけている。これは木満致が蘇我氏の祖で、後に飛鳥王朝で外戚であった蘇我氏が倭王位を簒奪したことを暗示して批難しているとしか想えない。

ですから、私は武寧王が斯麻であろうとなかろうと、そんなことには興味はなく、「どうぞ頑張って研究してください」と言ったはずです。

ただこれだけは言っておきますが。5~6世紀の朝鮮で、朝鮮人達の朝鮮語名がどんな意味だったか全く解っておらず、代々受け継がれる「姓」というものがあったかどうかすら解らないのです。
七世紀に百済を滅ぼした新羅武烈王の「金春秋」も中国に対して中国風の名前を名乗っていただけで朝鮮語でどんな名前だったかはわからず、白村江敗戦後に日本に亡命してきた百済高官の沙宅紹明・鬼室集斯・木素貴子・憶礼福留・日比子賛波羅金羅金須・鬼室集斯などは、朝鮮語名を音写したものか、職名や階級名なのかさっぱり解ってないのです。
ただ「鬼室」というのは、ここに出てくる鬼室集斯・鬼室集斯の他に660年に日本に救援を求めてやってきた鬼室福信という者もいるのでどうやら朝鮮語を音写した姓らしい、ということは解りますが、じゃあ朝鮮語で「鬼室」/gui-sil/というのはどういう意味なのか解らない。

朝鮮人が「金」だの「朴」だの「李」だの、中国風の姓名を名乗るようになったのは統一新羅以降のことで、6世紀代のわずかばかりの資料で「餘氏」がどうの「牟氏」がどうのと論じることに意味があるとは思えません。


 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)06時27分12秒
返信・引用
  > No.104[元記事へ]

> 音韻論の専門家に伺いますが、男弟の読みはカタカナ表記のヲオドに近いのでしょうか? 「百済訛り」という言い方は混乱を引き起こしますが、百済語的な読みということで理解してよろしいでしょうか? 語頭にヲという音韻(カタカナ表記なので近似音かもしれません)がくる言葉を私は他に知らないので。

「男弟」を「ヲオド」のように読むのは訓読みであり、音韻論では論じられません。

中国語で読めば/nan-di/、朝鮮語で読めば/nam-joe/です。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)06時19分42秒
返信・引用
  > No.103[元記事へ]

> > 須田八幡宮の人物画像鏡も金石文史料として貴重な第一級史料です。503年に斯麻が韓半島へ渡航し、自称百済王として(継体のモデルになった実在の人物)倭王の男弟王に賜ったものですから、『日本書紀』継体紀の継体即位(507年)までの紆余曲折が、この鏡一枚によって「嘘」であることは明白となります。男弟王の倭王即位年は503年ということになります。
>
> 『日本書紀』継体紀の奇妙さはこればかりではありません。継体即位後20年間も入京できなかった、という記事はいったい何やろうね。基本的に王が住まう所が都になるが、それはともかく継体が入京できなかったなら、安閑と宣化も入京できなかったでしょう。にもかかわらず、安閑はあたかも都にいるかのように「任那四県割譲」で百済を蛮国と毒づいています(512年)。ところが、欽明紀では532年に新羅によって金官伽耶が滅びた後、百済聖(明)王による「任那復興会議」の呼びかけに欽明が応じている。しかし、倭軍は出兵していない。

応神天皇以来嫡々継承されてきた大王位は武烈天皇で途切れ、越前からやって来たとされる継体はそれまでの大王家と血縁関係があるかどうかは盛んに議論されていることですが、ここでの話とは関係ないこと。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月25日(金)06時12分3秒
返信・引用
  > No.101[元記事へ]

> 斯麻の陵墓の木棺は固有種の高野槇製ですが、これは単に斯麻が列島にいたということ以上のことを示している。
>
>  倭王武が477年に即位し翌年に死んだというのは、貴方の論を正当化するために貴方が作り出した物語以上ではありません。
>
> 『日本書紀』雄略の在位年と『宋書』との齟齬は何ら解決されていません。つまり、『日本書紀』雄略の在位中に『宋書』では2度倭王が替っている、このことを貴方は解決できていません。それを解決できたかのように強弁で見せかけて、井上光貞と同様の雄略=武とする根拠は何もありません。
>
> 外交文書なしにその後の倭国の記録文書を忠実に『日本書紀』が残していたのなら、謎だらけの奇書のような『日本書紀』にはならなかった。

誰が雄略天皇が477年に即位し、479年に死んだなどと言ってるんですか?

462年に宋に遣使したのは一応興であるとみられているが、済である可能性も否定できない。
武が即位したのは462~465年ぐらいであろうが、462~477年まで遣使のなかった宋では、倭王が武に代替わりしていることを知らず、478年の倭王武上表文によって初めて10年以上前に武に代替わりをしていることを知った、とうこと。

日本書紀の武の治世中に宋書では二度倭王が変わっている、というのは、遣使がなかったため宋では462~478の間の済・興・武の代替わりを知らなかっただけ。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)21時41分58秒
返信・引用
  倭王武の上表文の「自昔祖禰」は祖父の珍ということではないか。ただし、讚と珍は兄弟であるが、珍と済との血縁関係はわからない。拙論では讚と珍は出雲連合の盟主(伝承の国津神、大国主大神)で、済は出雲連合に加盟していた九州倭国王であったと想います。
 南朝宋では、遣使から情報を得ることしかできない(金官伽耶についても同様)。
 拙論では倭王済が餘慶で、『日本書紀』雄略紀2年条の記事にあるとおり、己巳年(429年)に渡航して、九州倭国王に天津神として就いた。この時、珍は存命であり、438年に遣宋使を出している。珍の没年はわからないが、443年に済が遣宋使を出し、血脈のない珍の後継として宋から承認された。宋王は列島内のことを遣使によってしか得られない。

 倭王済は455年に前王を継いで百済王となった。この時、済は九州倭国王位を譲位した。『宋書』460年の倭王からの遣使では倭王の名は記されず将軍号も求めていない。462年の遣使は世子興によるものでこの遣使によって世子興は倭王として宋から承認され安東将軍号を受けている。455~462年まで在位していた九州倭国王は誰なのか、ということになります。458年に百済王餘慶が遣宋使を出して上表して臣下の将軍号を求めている。その臣下の筆頭には(百済王継承順位第二位の)右賢王餘紀、次に(百済王継承順位第一位の)餘昆が書かれている。このことから、九州倭国王として455~462年に在位していたのは餘紀であると。しかし将軍号の序列は征虜将軍の餘昆、冠軍将軍の餘紀、そして輔国将軍の餘都(外戚の牟都)の順。
 462年に倭王位に就いた興は餘昆。477年の倭王武は餘隆となる。
 拙論では「倭の五王」ではなく「倭の六王」。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)18時56分9秒
返信・引用
  拙論では、男弟王は斯麻の子で、倭王在位年は503~523年。503年即位からちょうど20年後に百済熊津に入京し、斯麻崩後、百済王を継いだ。男弟王は百済聖王と同一人物。倭王であった斯麻が宋朝から賜った漢風諡号の「武」と、百済王として521年に梁朝から賜った将軍号の「寧東大将軍」から百済聖王が斯麻崩後に「武寧王」と諡したものと想われる。  

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)14時20分28秒
返信・引用 編集済
  『日本書紀』の「任那四県割譲」の四県は『三国史記』地理志によれば現在の全羅北道にあり、ここで集中的に「前方後円墳」が発見されています。この頃、拙論では百済王は熊津に牟氏族の王がいて、餘氏族の百済斯麻王(餘隆)とは二王並立していたものと想います。百済熊津の牟氏百済から離反した全羅道の干岐たちが餘氏族の百済王を自称した斯麻王の臣下を宣言したものと想います。前方後円墳が任那四県の全羅北道に集中しているのは、この地域の首長たちが斯麻王に恭順したことの証左であるのでしょう。

『日本書紀』末多が餘昆の子(第二子)であるなら、末多の姓は餘であり、牟にはなりえない(牟氏の外戚でもない)。何故かこの時期に突如、金官伽耶の荷知王が遣宋使を出し輔国将軍号を受けている(479年で宋朝滅亡直前)。金官伽耶から南朝への遣使貢献はこの一回限り。金官伽耶の初代王は伝承的人物の金首露王ですが、その王権を荷知が簒奪したのではないか。『三国史記』によれば、荷知が金官伽耶王に即位したのは491年。この荷知が末多ではないか。『日本書紀』も『三国史記』も牟大と末多を同一人物としているが、それならば牟都と同じ姓であるのは奇妙。

『日本書紀』継体紀の久羅麻致支弥(クラマチキミ)の記事で、戦乱で広域伽羅へ流浪した「難民」に百済籍を登録させたことが書かれています。木満致と同一人物と想われる久羅麻致支弥が503年に百済王を自称した斯麻王の臣民として戸籍作成したのであれば、これは斯麻王をないがしろにした行為とはならず、斯麻王の臣下として大きな功績となったはず。当然ながら、この時の木満致は斯麻王の功臣であって、男弟王の臣下ではない。ところが、あたかも男弟王の臣下でありながら臣下としてあるまじき事績として『日本書紀』編者が批難して、しかもわざわざ「キミ」という王を意味する言葉をくっつけている。これは木満致が蘇我氏の祖で、後に飛鳥王朝で外戚であった蘇我氏が倭王位を簒奪したことを暗示して批難しているとしか想えない。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)13時45分9秒
返信・引用
  音韻論の専門家に伺いますが、男弟の読みはカタカナ表記のヲオドに近いのでしょうか? 「百済訛り」という言い方は混乱を引き起こしますが、百済語的な読みということで理解してよろしいでしょうか? 語頭にヲという音韻(カタカナ表記なので近似音かもしれません)がくる言葉を私は他に知らないので。  

Re: (無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)13時00分7秒
返信・引用 編集済
  > 須田八幡宮の人物画像鏡も金石文史料として貴重な第一級史料です。503年に斯麻が韓半島へ渡航し、自称百済王として(継体のモデルになった実在の人物)倭王の男弟王に賜ったものですから、『日本書紀』継体紀の継体即位(507年)までの紆余曲折が、この鏡一枚によって「嘘」であることは明白となります。男弟王の倭王即位年は503年ということになります。

『日本書紀』継体紀の奇妙さはこればかりではありません。継体即位後20年間も入京できなかった、という記事はいったい何やろうね。基本的に王が住まう所が都になるが、それはともかく継体が入京できなかったなら、安閑と宣化も入京できなかったでしょう。にもかかわらず、安閑はあたかも都にいるかのように「任那四県割譲」で百済を蛮国と毒づいています(512年)。ところが、欽明紀では532年に新羅によって金官伽耶が滅びた後、百済聖(明)王による「任那復興会議」の呼びかけに欽明が応じている。しかし、倭軍は出兵していない。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)12時00分4秒
返信・引用 編集済
  斯麻の陵墓の木棺は固有種の高野槇製ですが、これは単に斯麻が列島にいたということ以上のことを示している。

 倭王武が477年に即位し翌年に死んだというのは、貴方の論を正当化するために貴方が作り出した物語以上ではありません。

『日本書紀』雄略の在位年と『宋書』との齟齬は何ら解決されていません。つまり、『日本書紀』雄略の在位中に『宋書』では2度倭王が替っている、このことを貴方は解決できていません。それを解決できたかのように強弁で見せかけて、井上光貞と同様の雄略=武とする根拠は何もありません。

外交文書なしにその後の倭国の記録文書を忠実に『日本書紀』が残していたのなら、謎だらけの奇書のような『日本書紀』にはならなかった。
 

Re: (無題)

 投稿者:藤井游惟メール  投稿日:2022年 2月24日(木)09時59分16秒
返信・引用 編集済
  >私は既に書いています。471年に倭王であったのは興です。根拠(拙論を展開しているのではありません)も書いています。藤井さん、あなたは自分が何を書いているのかわかっていますか。日本の古代史学会の定説に雁字搦めになっているために、まともな判断ができていませんよ。『日本書紀』の方が日本の中のことはきっちり書いている、という固定観念に気づいてくださいよ。『宋書』97巻に書いている重要な事は外交記録です(『日本書紀』のような独り言ではありません)。

>『宋書』によれば倭王興の在位期間は462~477年です。471年の倭王は紛れもなく興です。倭王武の即位年は477年。ここまで私論は一切挟んでいません。

『宋書』から解るのは、
讃・珍・済の時代には5~8年置きに宋に朝貢していたのに、462年に興が朝貢して孝武帝から興を「安東将軍倭国王」の称号を賜って以来、477年まで15年間、遣使・朝貢が途絶える。

477年に15年ぶりに倭からの使者が来るが、これは正式なものでなかったため(恐らく翌年に多くの貢物を携えた正式の使者を送る、と予告しに来ただけだろう)、その時点で宋は15年前と同じく興が送って来た使者だと勘違いした。(が後にこの使者も武が送ってきたことが解ったため、倭国伝編纂の際にはそのことが書き加えられた)

その翌年の478年、武が件の立派な上表文と多くの貢物を携えた正規の使者を送ってきたため、宋は初めて倭では10数年前に興から武へと政権が交代していることを知った。

ところがさらにその翌年の479年に宋は滅び、同時に武(雄略天皇)も死んでしまった。

ここからは、同時代から140年以上も後の636年に完成した『梁書』によりますが、

宋の後を襲った済は僅か23年年後の502年に滅び、その後を襲った梁の高祖は王朝の交代を502年中に倭に通告するとともに、とっくに死んでいる倭王武対し、宋が与えた称号よりも格上の「征東大将軍」の称号を贈り、その忠誠心を買おうとした。

寺下さんが、462~477年まで倭を支配していたのは興であり、478年に興の後を襲った武は少なくとも502年まで生きていた、とする根拠はこれだけでしょう。そう考えれば、日本書紀の雄略天皇在位23年説とも一致すると。

しかし、このやり取りのきっかけとなった日本書紀区分論によれば、14巻雄略天皇紀以降はα群であり、α群は口承伝承ではなく、残されていた漢文史料をもとに中国人がで書いたものであって、雄略朝以降の倭の国内事情は外国史料や考古学史料に頼らずに論じられる完全な「歴史時代」に入ったのです。
雄略朝以降に多くの漢文資料が残されるようになったのは、436年に滅んだ北燕の難民が百済・伽耶を経由して日本にも多く(と言っても数十人程度でしょうが流れてきたからであり、その証拠に「倭王武上表文」は格調高い漢文として全文が『宋書』に収録されている、
(この北燕人説は私のオリジナルです)

国内の歴史に関しては、外国人の書いた歴史よりも内国人が書いたものの方が信用できる、ということは寺下さん自身が証明しているではありませんか?

やれ「斯志麻」がどうの「武寧王」がどうの「宋山里古墳」がどうの、と韓国でもの普通の人間が知らないことを知っている寺下さんが、テレビやネットを通じていくらでも情報が得られ、パック旅行なら2~3万円で行ける韓国に行ったこともなく、朝鮮半島の地理・地形など全く知らず、平安道を拠点とする高句麗の5万の大軍が江原道の山岳地帯を突っ切って慶尚道の慶州や任那・伽耶まで攻め込めた、などと非常識極まりないことを仰る。

これだけ情報豊かな時代に、朝鮮古代史を研究している人すら一衣帯水の朝鮮半島の地理地形すら知らないのに、遠く離れた島国である倭国の内情など使者や商人などからの伝聞で知るしかない5~6世紀の南朝の史料の方が、倭国内にいた人間が書いた史料に基づく『日本書紀』よりも信頼できる、とでも仰るのですか?


>『三国史記』の成立年代云々を書けば、それで史料批判できるんですか? 史料批判の前提は、当たり前のことですが、まず史料を読むことです。読んでいない史料を批判することはできません。

その言葉、そっくりお返しします。
「高句麗好太王碑文」に400年に高句麗軍が任那・伽耶まで攻め込んだことはちゃんと書かれているのに「そんなことは書かれていない」とおっしゃったのはどなたですか?

いずれにせよ、これまでの寺下さんとのやり取りで、今まで他人の読み下しに頼っていた高句麗好太王碑文、稲荷山古墳鉄剣銘、倭王武上表文などを自分の目で読み返し、宋書・梁書などに関する知識も得られ、私の「倭王武=-雄略天皇=獲加多支鹵」説支持はますます強固になり、以前yahoo掲示板か何かで「倭王武は6世紀まで生きていた」という書き込みを見たことがありますがそれは梁書を根拠にしている説だということも解りました。

故に、悪いですが「雄略天皇=斯麻」説は全面否定。
ただ、日本生まれの斯麻が百済の武寧王になった、という可能性は否定しませんが、そのテーマに関して私は興味ありませんので、「御研究頑張ってください」というしかありません。

掲示板でのやり取りの良さは、人目に触れる掲示板でいい加減な投稿をして恥をかくことがないように、投稿前にあらゆる批判を想定し裏付けをとり、理論武装してから書き込むので、そのテーマに関する知識が一層拡大・深化することにあります。
掲示板はコスパがいい、というのはこのことで、寺下さんのおかげで、私の倭王武に関する知識はますます拡大・深化しました。
ありがとうごさいます。

なお、私はかつて外務省外郭団体の日本語教育機関に勤めていましたが、教育機関であって研究機関ではないので、科研費はもらったことがありません。
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月24日(木)06時55分26秒
返信・引用
  不躾な質問ですが、あなたは科学研究費を生活の糧にしていますか?
 

(無題)

 投稿者:寺下眞治メール  投稿日:2022年 2月23日(水)18時09分26秒
返信・引用 編集済
  私は既に書いています。471年に倭王であったのは興です。根拠(拙論を展開しているのではありません)も書いています。藤井さん、あなたは自分が何を書いているのかわかっていますか。日本の古代史学会の定説に雁字搦めになっているために、まともな判断ができていませんよ。『日本書紀』の方が日本の中のことはきっちり書いている、という固定観念に気づいてくださいよ。『宋書』97巻に書いている重要な事は外交記録です(『日本書紀』のような独り言ではありません)。

『宋書』によれば倭王興の在位期間は462~477年です。471年の倭王は紛れもなく興です。倭王武の即位年は477年。ここまで私論は一切挟んでいません。

『三国史記』の成立年代云々を書けば、それで史料批判できるんですか? 史料批判の前提は、当たり前のことですが、まず史料を読むことです。読んでいない史料を批判することはできません。
 

/6