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Re: 大和朝廷の創立者
投稿者:藤井游惟> 東アジアの歴史を好んで、自分なりに研究してきたものです。第一章を読ませていただきましたが、大筋は正しいと思います。但し、大和朝廷を立てた勢力は加羅からの勢力だけではなく、百済王室からの勢力も今にいたる日本国家の雛形を作った核となる集団だと思います。加羅防衛及び百済の破綻を防ぐために、百済王子の昆支は加羅系大和朝廷に働きをかけて、倭王の婿入りとして、百済と倭国は一体化を図ることに成功しました。加羅系倭王が死んだ後に、百済王子昆支は百済系倭王として登場。百済の武寧王が日本で生まれ、40代まで日本で育てられた日本人ポリシーなる人物が百済で王になれたのも、武寧王が倭王になった百済王子昆支の息子であったためです。それ以降の倭王は百済系の倭王ばかりであったため、母国であった百済が滅亡された後に全力をかけて白村江に戦っていた理由はそこにあります。
ご投稿ありがとうございます。
パソコンにトラブルがあり、長い間ご投稿に気づかず、もうしわけありません。
ただ、せっかくのご意見ですが、え「百済王室からの勢力も今にいたる日本国家の雛形を作った核となる集団」とのご意見には賛同いたしかねます。
百済・新羅・倭の建国は、313年の楽浪郡滅亡から、高句麗好太王碑文に記された391年の倭軍の半島大攻勢の間のことで、4世紀半ばのほぼ同時期に建国されたことになります。
そして好太王碑文によれば
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」
〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
とあり、4世紀半ばの倭の建国に百済がかかわったはずがありません。
4世紀代の百済は、朝鮮半島の黄海に面する西海岸の馬韓地方(現代の京畿道・忠清道)の地方政権であって、日本列島に渡る南海(朝鮮海峡)には面しておらず、日本列島に攻め込むには、海路伽耶が支配する全羅道を迂回するか、陸路で強引に伽耶を突っ切って南海岸に至るしかありませんが、建国間もない百済にそんな能力があったはずがありません。
ご指摘の百済の昆支のや武寧王は倭の建国から100年も経った5世紀後半の人物であって、倭の建国とは何の関係もありません。
4~7世紀の朝鮮半島の地政学的状況を見れば、百済の主敵は北方の高句麗、伽耶(倭)の主敵は同じ慶尚道内で派遣を争う新羅であり、百済と伽耶(倭)は背中合わせでそれぞれの主敵に対処する地政学的な同盟関係にあったのです。
特に、地続きの高句麗と新羅に挟まれた百済は、倭(伽耶)に新羅を牽制してもらうことに死活の重要性があったのです。
また、倭王朝にとっては、本貫の地でありながら、現在は海外領土と化している伽耶を新羅の侵略から守るためには百済の協力が必要でした。
こういう地政学的な環境から、倭(伽耶)と百済は顕在的にも潜在的にも同盟関係にあり、特に百済は倭の機嫌を損ねて新羅や高句麗の側に寝返らぬように、細心の注意を払っていたのです。
ご指摘の昆支は、「百済は倭を裏切らない」ということを証明する人質だったのであって、倭の建国とは何の関係もありません。
昆支に限らず、倭と百済の王族・貴族の人質や婚姻関係は沢山あったはずで、百済王族・貴族の血を引いている倭王や貴族は沢山いたはずですが、たとえ倭王が百済王の血を引いていたからと言って、百済が倭をコントロールできたなどと思うのは妄想。
日露戦争当時、ロシアのニコライ二世と英王室とは血縁関係にありましたが、イギリスはロシアとではなく日本と同盟しました。
倭王朝が成立、発展する段階で、同盟関係にある文化的先進国の百済から多数の人材を受け入れ、文化的発展を遂げた事実ですが、だからといって、百済が倭を政治的に支配していたなどというのは妄想にすぎません。
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