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大化の改新に先立って、50年来に渡り支配してきた蘇我一族に対するクーデター乙巳の変が起こる。645年6月12日、蘇我入鹿の暗殺は飛鳥板蓋宮大極殿内裏(天皇住居)の庭で起きた。謀反した蘇我石川麻呂は蘇我入鹿とともに宮廷に入る。どこへ行くにも常に剣を携帯する用心深い入鹿だったが,この日は鎌足が命じた従者(かわら芸人)の演技に興じて,笑って油断し剣を預けてしまう。天皇の前には,古人大兄皇子,蘇我入鹿,蘇我石川麻呂の3人がいた。すこし離れて,長槍を持った中大兄皇子(20歳),弓矢を持った中臣鎌足(32歳),2人の刺客(佐伯連子麻呂,葛城稚犬養連網田)が隠れていた。石川麻呂が上表文を読み始めると二人の刺客が飛び出して入鹿を斬りつけ,これを中大兄皇子,中臣鎌足が応援する手筈になっていた。宮門を固めて準備が整い、大極殿にて石川麻呂が上表文を読み上げ始めた。しかし,2人の刺客は入鹿を恐れて飛び出せなくなっていた。 次第に石川麻呂も声も体も震え,抑えることができなくなる。その様子を蘇我入鹿が不審に思い問い質すと,石川麻呂は「帝の御前ゆえ緊張している」とこたえた。その瞬間,柱の陰に隠れていた中大兄皇子が剣を抜いて上段から斬りかかり,子麻呂が足を斬りつけ,鎌足は弓を構えた。「何の罪があるか」と叫ぶ入鹿に「皇子を殺して天皇の力を衰えさせようと策している」と答える中大兄皇子,目前で一部始終を見ていた中大兄皇子の母皇極天皇は自分に害が及ぶのを恐れて御簾の奥に逃げ去った。刺客の子麻呂と犬養連網田がさらに入鹿を斬りつけ,遂に入鹿は息絶えた。入鹿の死体は宮の外に放り出され雨に晒された。今でも入鹿の首塚が存在する。以前に、蘇我馬子は、蘇我一族であった聖徳太子をも毒殺し、その子・山背皇子(やましろのおうじ)を襲撃し殺していた。これにより,蘇我一族でもあった聖徳太子一族は既に滅びていた。反旗した右大臣蘇我石川麻呂も後に密告で謀反の罪を着せられ、謀殺された。これで推古天皇や聖徳太子の蘇我一族は遂に歴史から抹殺されたのである。豪族支配の崩壊を画策した中大兄皇子=天武天皇が狙った支配権とは、皇族帝国主義であり寡頭政治・中央集権化であった。そして、土着の日本人が主に支配する豪族達を天孫である渡来人の奴隷とする国家クーデターであった。後の壬申の乱とは、同じ血族・兄弟による権力闘争に過ぎなかった。この時点より、蘇我氏・聖徳太子が目指した古神道・仏教の精神は換骨奪胎され、西方宗教が主要バックボーンの伊勢神道が天皇家の祭神・氏神となり、記紀国家神道として祭政一致のイデオロギーとされたのである。当然、聖徳太子が主に信仰した神道の権威文献、特に推古天皇のときの太子編纂「先代旧事本紀大成経」などは外典とされ、多数の文献が発禁偽書とされ焚書坑儒ののち、天武天皇により政治的に捏造された古事記・日本書紀のみが唯一の権威とされたのは必然の動きだった。古神道は歴史の塵に埋もれ、このときより外来系渡来人により造られた天皇独裁国家「日本」の名前が始めて国旗日の丸とともに登場したのである。日本の国体創始と天皇家の歴史の始原は、「半島人」である渡来人中大兄皇子による、七世紀における土着豪族の民族支配からの国盗り内乱に過ぎなかった。
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